廃線跡探訪 番外編
 伏見・稲荷線
FI1 FI2 ●竹田街道十条1 ●竹田街道十条2

 塩小路高倉南西角。

 竹田街道八条上ル。
 跨線橋を降りる途中に残る。

 隣の新幹線ホームを望む。

 竹田街道十条南東角に立つ2本の電柱(北側)。
 どちらも頂部が切断されており,かつ基礎が架線柱のものらしく,古めかしさが残る。頂部の切断跡はカバーされているようだ。

 竹田街道十条南東角に立つ2本の電柱(南側)。
 竹田街道には,阪神高速京都線ができるまで多くの架線柱が残されていたが,殆どが撤去・更新が進んだ。この2本もそれらしいが,決定的な証拠がない。古い写真では普通の電柱のようにも見えるため,この2本はカウントには入れていない。
FI3 FI4 ●砂川児童公園

 勧進橋東詰北東角。

 砂川児童公園北東側。
 稲荷線に残る唯一の架線柱。

 児童公園の擁壁には,架線柱跡が一部残されている。
 トロリーバス梅津線
UM1 ●京福西院前 UM2

 京福西院前北東角。
 四条通り大宮より西は,市電ではなくトロリーバスが運行していた。これはトロバスの架線柱になる。

 京福西院前北西角。
 こちらはトロリーバスではなく,京福電鉄所有の架線柱。全国でも珍しい電鈴式警報機が設置されているのが見える。違う意味で絶滅危惧度V。

 「三九-一」と「読める。

 松尾橋停留所。
 かつては,トロリーバスが旋回していた場所で,今は市バスが旋回している。そこに1本だけ架線柱が残る。交通局として最後(S37年5月1日開通)の架線柱になる。
 蹴上線
●蹴上1 ●蹴上2 ●蹴上3 ●蹴上4
 仁王門通り蹴上付近。インクライン側(東側)の石垣に4本架線柱跡が残されている。
 いずれも基礎部分だけが残り,金属部分は溶断されている。矩形型とわかるが,反対側(西側)には全く残されていない。
 なお,一般に知られている古写真(明治末期〜大正初期)を見るとセンターポールとなっているが,その後矩形型に変更されたものと推測される。いつ変更されたかは不明だ。四条通り等は昭和30年代までセンターポールであったが,それと比べるとかなり早い時期にセンターポールが撤去されたことになる。
 しかし,蹴上線は終戦を待たずに休止となっているため,本当にこれらが蹴上線の架線柱だったのかという疑問もないではないが…
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